【日記】2021年11月19日(金)

 今日は昼に目を覚ます。ある長年の研究仲間から投稿論文の修正依頼を手伝ってほしいと言われているのであった。彼のメールは残り時間が5時間もないことを告げていた。チョリソーと冷凍ご飯とパスタソースで簡単な食事を用意しつつ、メールに添付された草稿データをプリンタに出力して紙に印刷し、腹に栄養をぶち込みつつ、同志の論文に応急処置のメスを入れていく。

 勝負に挑む者は結局のところ結果がすべてである。言葉を商売道具とする者は、試行錯誤の道筋がどんなものであれ、外側に刻印された痕跡(ex-pression・Aus-druck・вы-ражение・表-現)だけがすべてである。いつまでも形にならない草稿を定稿へともっていくには、鋼鉄を何度も鍛え直すような作業を必要とする。共に長い時を過ごしてきた同志の言葉の意味を受け止めつつも、あくまで表面に現れたものだけに専念するには冷酷な意志が必要である。弱い部分や歪んだ部分は容赦無く冷酷に叩いては壊し、強く鋭い刃物に仕上げていく。わたしは、自分の仕事を多少は後に回して優先するほどには、この仕事が好きである。
 他人の日本語に向き合うのはおもしろい。文全体の構成、段落の分け方、文章同士のつなげ方、一文の長短の度合い、単語や熟語の使い方など、各階層ごとに目を凝らしてチェックしていくと、それがそのまま自分の言語実践のあり方を反省させ、やがては日本語という言語共同体を意識させるからである。観察する文章に癖があればあるほどそれを強く感じる。独特の文体と酷い悪文は紙一重なのかもしれない。言語規範(文法・語法)の忠実でありすぎるか、徹底的に叛逆しているかの違い、またそれらの配分や位置関係の違いに過ぎないのであるから。
 件の同志の日本語は、善かれ悪しかれ読者の脳裏に印象を残し続けるであろう程度には、強烈な特徴をもっている。まずもって一文が長い。しかも長いといっても、主語と述語を明瞭にんで主文を一徹させつつ、複文や修飾句を階層的に散りばめ、それらを滑らかに接続していく、例えば蓮實重彦のような長文ではない。複文も修飾句も一切合切をひとつの主語に背負わせ、さらに頑なに受動態にばかり依存することで、頭がとびきり重くなった長文である。ここで再現するのは難しいが、前者の長文は動詞主体に、後者は名詞主体になる傾向をもたざるを得ない(例:「当局が100人の活動家を不当に逮捕したことで」/「当局の100人の活動家の不当な逮捕によって」)。
 私が曲がりなりにも習得した(しつつある)言語で考えると、英語やフランス語は動詞主体・能動態重視の、ドイツ語は名詞主体・やや受動態重視の傾向をもっているように思う(ロシア語はまだそこまで分からないが)。確かに日本語は受け身中心になりがちで、そこから主語はなくても通じるだとか論理的でないとか、挙げ句の果てには日本人には主体性・責任意識がないだとかいう話が出てくるのだが、そういう似非文化論はさておき、日本語の「自然な」フォームって何だろうかと改めて考えてしまう。
 少なくとも近代以降の日本語は、西欧諸語との格闘によってその語彙や文法を鍛えてきたこと--ロシア語で書いてから日本語に訳して『浮雲』を書いた二葉亭四迷、同じことを英語から行った村上春樹、フランス語の文構造を血肉化して「悪文」と呼ばれる文章を書いた大江健三郎、ドイツ語の直訳調の文章を社会科学あるいは「党」の標準文体としたマルクス主義者たち--を踏まえれば、随分と度量の広い、裏を返せば運用上の隙が多い言語である(例えば、驚くべきことに読点の打ち方に統一的なルールはないに等しい!)。だから私は、日本語で食っていくものは、少なくとも読解・作文の点だけでも外国語に精通していなくてはならないという古風な格率を信じているのだ。
 唯物的な次元に目を移してみれば謎は広がるばかりだ。深夜にこうやってタイピングしていることそれ自体が奇妙ではないか? 頭に浮かんだ文字をアルファベットに直して一字ずつタイプし、ローマ字から瞬間的に変貌した平仮名を今度は、適当な箇所で区切って漢字とかな(やカタカナ)の組み合わせへと変化させる。手順としては「かな入力」の方が「ローマ字入力」よりも効率的であるはずなのに、実務の上では後者のヘゲモニーは揺らがない。他方、これが携帯端末になると「フリック入力」という形で前者の入力方式が逆襲をはじめている。話が逸れた。以下の訳書に見られるような、唯物的転回?を遂げつつある(安易なコミュニケーション論で閉じてしまわない!)メディア論についてはしっかり勉強したいと考えている。

inscript.co.jp

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 結局のところ、鍛冶屋たる私は、件の同志の文体をできるだけ残すよう心がけ、どうしても意味が通らないところについてのみ、修正案を提示した。悪文のようなものは、ひとつの文体の可能態であると考えるからだ。昨今、流行っている「アカデミック・ライティング」が北米合州国という土壌であればこそ必要とされた表現の一つの「型」であり、時と場合によってはそのまま使うことはできず、またやがては離れて打ち捨てられる(守・破・離)対象でさえあること。それを忘れないでおくことは、英語ではなく日本語を使って表現する/せざるを得ないという言語共同体への感覚そのものを左右するし、そのためには、自分なりの表現論とその変体をいくつか用意しておくことが肝要であるからだ。
 なんとかして話にオチをついたのか? そもそもこの場にオチは必要か? これは「想起帳」なのだから、始幕・中幕・終幕が揃っていなくてもいいわけだが、まだラフに書くということに慣れておらず、悪い意味で真面目に書いてしまう癖が抜けていないようだ。この場は、形式において「日記」、内容において「想起」たることを目指している。文体や単語には偏執的なこだわりがあるし、全世界に垂れ流す以上、その欲望を統制するのは難儀であろう。それでも、毎日なんらかの事柄を書き続けたい。文体の実験もなるべくさまざまなやり方で為していかねばならない。