【日記】2021年11月21日(日)

 今週末はひとと会う用事もなかったので、溜まっている事務仕事をひたすら続けている。徹夜をして昼間まで作業に集中し、長い昼寝を取ってから夕食、また作業に戻る。この想起帳を記すのも3日目である。「三日坊主」と昔からいう通り、何かを習慣づけるときに3日目というのはひとつの壁だが、平日でもちゃんと続けていこう…

 

 何かを過剰に価値づけようと力めば力むほど残念な結果になる。何かを持ち上げ過ぎれば「誉め殺し」という嘲笑に、何かを攻撃し過ぎれば「悪魔化」という賞賛をもたらすだけだろう。現代の「論壇?」なるものの場を作るSNSでは、その風潮に速度の集中と感情のラッシュが交わっていくが…もはや何も言うまい。

 見るに堪えないし聞くに堪えないのは、学問好きと思しき人々が「この〇〇を読まねば、××学では即死確定!」と大げさな物言いで入門書の類を勧め、その絶叫に多くの「共感」や「拡散」のボタンが消費される光景である。そんな強迫症的な物言いで読書を迫って(あるいは互いに迫りあって)楽しいだろかと思うし、推薦されてる本を見ても別に絶対的な「古典」というわけではないし、案の定、推薦者の「読み」が格段優れているわけでもない。

 特にうんざりするのは、そういった言説の産出や再生産に「アカデミズム」に関係する一部の人々が積極的に参加している点だ。「〇〇は、××学を学ぶ人は全員必読にすべき」「政治家には全員、〇〇を読ませるべき」と声高に叫ぶ事例に至っては、中途半端な権威を傲慢なかたちで振りかざす言語実践であり、呆れてしまう。そういう人に限って、じゃあマルクスやM・ヴェーバーは読みましたかと尋ねてみると、「冷戦崩壊後にそんなものは古い」だとか「そういう教養マウンティングは良くないよね」だとかいう情けない言い訳で開き直り*1、自らの不勉強を恥じようともしない。20世紀以降で人文・社会系の学問をやるときに、例えば『資本論』や『純理』よりも優先して読まねばならない本って、最近出された小綺麗な本のうちに何冊あるというのだろうか。

 そんなしみったれた態度で多数に阿ることで、その実「××学」の「定説」なり「お作法」なりを再強化し続けるような「教科書」ネクロマニアになるよりかは、私は「古典」を前に(可能ならば原書を参照しながら)唸ることで自分自身の瑞々しい「教科書」を新しく描いてやりたいとさえ思うのだ。その代償として「老害」や「アナクロ」のレッテルが貼られるだろうとしても*2。とはいえ幸いなるかな、私の周りにはそうした想いを共有できる人々がちらほら見られるし、そうした方々からは常に刺激を受けている。

 SNSで得られる出版情報には貴重なものも少なくはないが、それにしても「話題の新刊」や「必読書」の氾濫からは距離を取っていきたい。もうここ2年くらい、新しく出た新書の類は、読む必要が迫られない限り、ほとんど目を通していない。この種の天邪鬼的な態度は、自らの不勉強の弁明につながることには常に反省的でありたいものの、私は私自身にとって「生きた知識」を紡ぐためのアイデアをもたらす原石を、埃のなかから発掘することだけで精一杯なのだ。

 林達夫がどこかで言っていたが、自分でものを考えるにはあまり人の書いたものを読んでいる時間はないはずなのだ。私の場合、それに気づくまでに時間がかかりすぎてしまったが、今はとにかく書く身体を日々、鍛えていくことを続けたい。

*1:執拗な言い方になってしまうが、ウェーバーではなくドイツ語の読みに近い「ヴェーバー」という言い方をして「ある種の権威主義じゃない?」と冗談めかして言われたことがあるが、私自身は日本語世界のもつ正当な慣用である言語尊重主義に従っているだけである。なおその人が英語圏が長かったせいだろうか、妄りに英語表現を日本語に混ぜて憚らなかったのはどこかおもしろかった。

*2:ですので私が博士課程にもなってまだカントをまともに読んでいないことは死ぬほど恥ずかしいと思っています。一緒に読んでくれる人は声をかけてください。