【日記】2021年12月1日(水)

 今日は一日がっつりと原稿に向かうべく、近所に住む同志の力を借りて早起きし、喫茶店で珈琲とパンを食してから、自宅の書斎で作業に向かう。

 序章と第1章は大体出来ていて、第2章以降も骨組みと引用箇所は決まっているからと油断していたが、途中から急にやる気を失ってしまった。どうしても全体の話が閉じてしまって、広く「外部」に開くことが困難だと直観してしまったからである。しかも序章から順番に一気呵成に書くことで、論理の一貫性とプロットの勢いを確保する(確立しつつあるかどうかもわからない)スタイルに私はこだわってしまうため、序章でコケるとそこで書くのが苦痛になってしまうのだ。

 どこに壁があるかは判然としている。今取り組んでいる論文は日ソ関係史に関わるものであるが、ロシアにある文書が使えないため、日本側(というか日本語で書かれた)史料から言えることを書き出している。特定の言語・場に限定された言説群から出発すれば、どうしても全体のストーリーが小さく閉鎖してしまうように見えるのは当然だ。無論、テキストを読む訓練を数年もやっていれば、史料から言えることから逆算して、その場に相応しい問いと答えの連環を組み上げて「新規性」を示すのは決して難しくはないが、それは「創造的」な行為とは言えない。

 定期的に業績を出すには、つまらない議論になるとわかっていても堅実なものを書き続ける、退屈な塹壕戦に耐え続ける力も必要なのかもしれない。入手できる史料が変わらないのであれば、位置づけで勝負する、つまり二次文献や関連分野の知識を駆使して発展性を演出することに賭けるしかないのであるがしかし、そうした空中戦的なトリックがどこまで通用するのであろうか。