【日記】2021年12月4日(土)

 一旦、緊張の糸が切れるとどっと疲れが出てしまう。表現者は畢竟、表に出たテキストだけで勝負するしかない以上、また表出のタイミングが限られている以上、最終最後の瞬間最大風速が足りなければ全てダメである。そういう時はとにかく食って寝るに限る。身分は不安定ながらも寝る時間を十分に与えられているだけ、現代社会では儲け者だと思う。 

 昨日の帳面では、継続して書き続けることを自戒としたが、今日の帳面では「強度」について想い出したことを書こう。日本最大のドイツ史家にして保守論客でもあった野田宣雄氏が90歳を前に天寿を全うしたのは昨年末のことである。その学恩をそれぞれの形で受けた(いずれも京大でドイツ史に関わった)先生方は、師の作品を「歴史」「教養」「政治」「宗教」に分類してそれぞれに解題を付した上で、論集にまとめ上げた。全部で500頁以上のハードカバー、収録作品は17本、ドイツ現代史から大学問題、国際政治時評、そしてライフワークでもあった宗教論まで、野田宣雄史学、いや野田史論への「導きEinleitung」としては最適だろう*1

 

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 私は本書を数日前、同志の家の片隅に見つけて手に取った。まずは此岸の弟子たちの解題、それも個人的な思い出を記した箇所に目を通したが、瀧井一博先生による解題(第Ⅲ部)が私の注意を引いた。冷戦崩壊後に(故)高坂正堯・野田両氏が京大法学部棟内を歩きながら「今後は北朝鮮が大事になるね」と語っていたというのも気になったが、「野田先生はどんな洋書でも1日で読み終えられた」という逸話は私の連想、そして空想をかきたてる。

 野田氏がこちらが畏ってしまうほどの博識・勉強家であることは、そのテキストに接するだけで感じられる。氏が「一次史料」に即した実証的な歴史研究で業績をあげていたことは疑うべくもないが、その偉大さは多くの「二次文献」を駆使して、批判的な議論を進めた上で、独自の骨太なテーゼを構築するさまにある。その手腕の鮮やかさは、本邦のナチズム研究の金字塔でもある『教養市民層からナチズムへ』*2に見られる通りだ。コロナ禍のため、「未公刊史料」に飛びついて「新規性」を作り上げるという(私もその一人であるが…)ゼロ年代以降のやり方が無効になったここ2年、この偉大な「文明史家」にはもっと多くのことを学ばなければならないと実感している。

 さて問題は、件の「洋書読破伝説?」である。超人的な学者を作るのは、超人的な読書量であるというのは論をまたない。かの哲学者・廣松渉も「1日に300~500頁読まねば学者ではない」と言っていたという(注:その頁数は洋書か和書かで変わったらしいし、伝える人によって差があるし、よくわからない)。野田氏にせよ、廣松氏にせよ、少なくとも凡夫がその言葉を「文字通りに」真似するだけでは、少しばかり人より書誌事項に詳しくなるくらいの利益しかないだろうが*3、それでも爪の垢くらいでいいからマイスターの技を盗みたいというのも匹夫の根性である。

 熱烈な門弟である佐藤卓己先生は、一つの大事なパズルのピースをもっているようだ。学部時代に1日に数頁しか洋書を読めないことを難儀に感じていた彼は、野田研究室の書棚を飾る膨大な独・英書を横眼に、師に悩みを告白したところ、「完璧な読書」など不可能なのだから自分がわかる部分を読んで論文にするしかないのだという答えをもらったのだという。救いの言葉。

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 慣れない言葉で自らの身体に刻み込むように一語一語丁寧に読んでいく。それは外国語の読解練習では欠かせない道であるが、その経験は多くの場合、その言語や地域への憧憬の念と結びつき、外国語テキストそれ自体の物神化を招くことになる(教養主義の功罪)。注意せねばならない。私も今でこそ日本研究者を名乗っているが、修士までは西洋史学の訓練を受けたため、この種の物神崇拝はないとは言えない。横文字を読んでいるときの愉悦は、異なる言葉で頭脳を働かせるスポーツ的なそれでもあるが、その裏には日本語以外を読める自分への自己陶酔感が図らずも入り込んでしまうことには常に注意している。なぜなら、「洋書はゆっくり読まざるを得ない」という研究条件が「洋書は丁寧に読むべき」であるという規範にいつの間にか転化するのを、そうした自己陶酔は正当化してしまうからである。

 当たり前の結論なのだろうが、野田先生が「洋書を1日で読み終わった」というのは、文字通りに理解すべきだろう。100~200頁ほどの本であれば凡夫でも1日集中すれば読み通すことは不可能ではないし、たとえ300頁以上の本であっても、「1日で読み終えた」部分のみが野田先生にとっての「洋書」なのだろうから。だが、序文と結論を読むような、北米の大学院博士課程に入りたての院生が脳筋的な「読書課題reading assignment」を前に最初にたくらむような浅知恵では、野田先生の博識をなすことはできまい。きっとマイスターの「1日」には途轍もないほどの「強度」が濃縮されていたのだろうし、それを可能にしたのは「その日を摘めcarpe diem」との格率を素早く実践するだけの「速度」であったのだろう。

*1:本書をドイツ語の意味での「便覧Handbuch」と言い表してもよかろう。ドイツの研究「ハンドブック」は多くの場合、とても「片手Hand」で扱えるような軽さではないのだから

*2:そのクリアカットな紹介は、我が同志・林祐一郎氏のものを参照。

《読書案内》どうしてカントとゲーテの国でヒトラーが?―野田宣雄『ドイツ教養市民層の歴史』 | Der Bote

*3:無論だが書誌「学」をやるならばこんな生半可な努力では足りないのだ!