【日記】2021年11月26日(金)

 今日はあまり目覚めがよろしくなかった。というわけで作業は主に午後から。片付けねばならない原稿が3つあったのだが、喫緊を要する書類仕事が現れたため、そちらに全力を注ぐ。というわけで月1回開催で楽しみしている研究会は直前にキャンセルしてしまった(担当者の方にはお詫び申し上げます)。

 あっという間に日も暮れたのでカルチャースクールでの授業に勤しむ。1コマ目は社会人向けクラス、2コマ目は中高生向けクラスを担当しているが、いずれも同じく歴史に関する新書を読み進めて講師がコメントするというもの。テキストがどの言語で書かれていても(母語であっても)、講読は原則として「文字通りに読むこと」が最も大事だと考えている。まずは自分の解釈や拘りを入れずに「書いてある通りに」読むこと。それは「素読」や「リテラルlitéral」という言い方もできるだろうが、普段から書に親しむ者からしても実はこれが一番難しい。

 特に21世紀に生きる我々は、簡単に発信媒体を利用することができるため、「オリジナル」であることを求められるし、誰もが「創造的」たりうるかのような錯覚を覚えてしまう。そうした強迫観念のせいで、他人とは違った「読み込み」を過剰にするあまり、一見すると驚くような結論が出揃う反面、その議論の構造は凡庸だったり、過程に穴だらけだったりする事例は決して少なくない。蓮實重彦氏が対象への愛に溢れた浩瀚なマクシム・デュカン論のなかで主張するように、オリジナリティを求めれば求めるほど凡庸になってしまう。フローベールがこの偉大な凡才をもつ友と一線を画すことができたのは、彼がただ観ることだけをできたからだという。

 

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