【お知らせ】ラジオ番組「〈史想〉の雑音録」を放送中

皆さま、ご無沙汰しております。

もとは毎日何か思考や実践の痕跡を残そうと昨秋に本ブログを開設しましたが、筆不精の性癖は簡単には治らず、昨年の12月最初からブログ執筆を止めておりました。

実は年末年始にあるトラブルに巻き込まれ、コロナ禍でのロシア留学の困難、さらに2月には流行病にかかってしまい、まともにモノをかける状況ではありませんでした。親しくしている研究者からは、まずは週1で書けるようにペースを整えるよう勧められたので、素直にその忠告に従おうと考えております。

さて2月からRadiotalkというラジオ配信サービスを使って、新しい番組を配信することにしました。タイトルは「〈史想〉の雑音録」です。概要は「歴史の黄昏時を生きるなか、それでも歴史に触れようとするなかで想ったこと、〈史想〉を拙いながらも言葉にしていく」というものです。こちらも週3〜4回の不定期配信を目指していますがなかなか達成できていませんね。

radiotalk.jp

 

私がラジオ配信を始めた理由は2つ。

 

まず、私にとって書くよりも話す方が楽であるから。Radiotalkは1回に12分までしか収録することができません。従って何文字でも書けてしまうブログとは違って、一定の枠が用意されているから、Radiotalkでは無制約に拡がる思考を適切に刈り取りながら表現することができます。その日に考えたことや体験したことをダラダラと話すのではなく、12分間という枠をもった「お話し」として捻り出すことを、ある種の「音声日記」として楽しみたいと考えているのです。でもそれだったら140字という枠があるツイッターがあるではないかという反論もあるでしょう。

その答えともつながるのですが、次の理由がラジオ番組という媒体は最低限の「孤独」さを発信者に保証してくれるからです。ツイッターをはじめとする活字SNSは相互に引用・言及しあい、それが瞬時に相手に伝わることが、その社会的磁場の強さを作っている反面、気軽かつ無責任とも言える「共有」機能や悪意ある「切り取り」、そして何よりも「いいね・リツイート数」という限りなく単純化された市場原理が支配する場でもあります。かつて私がそこで少なからぬ絆を得たことは否定しませんが、同時にその馴れ合い・村社会性が嫌になりました*1

Radiotalkは音声媒体である以上、他者の言説に言及することはできても、即レス的な相互言及の関係は生まれにくい、少なくともまずは相手の声を〈聴く〉ことが求められます*2。あれだけ素晴らしいものを書く人が、数秒間の切り取られた相手の言葉を見て、瞬間湯沸かし器になる人が増えるなか、「孤独」かつ「自由」な空間(それがいつまで続くかはわかりませんが)を作っていくのは喫緊の課題と言えます。

 

私は個人と話すのはとても大好きですが、大きな集団での権力ゲームを乗り切るのは得意ではないし、他人の噂話に必要以上に立ち入るのは嫌いであり、それゆえに人には日々「政治嫌い」を自称しています。無論、この態度は(近代ドイツ発、日本に増幅される形で輸入された)プチブル的な「教養知識人」の悪癖にほかならず、そんなんだから「ファシズム」に抵抗できなかったではないかと言われるのは重々承知です。だからこそ、「自分の村が火に包まれる事態を迅速に察知できるよう」にするための実践的な智慧として〈政治〉には関わっていくつもりです。

たいそう生意気な「無頼」気取りの私にも、ありがたいことに講演依頼や執筆依頼、研究会への誘いが舞い込んでおります。まだまだちっぽけな成果しか世に出せていないのを恥じるばかりですが、未成者を一人前に矯正する「外部」をもたらすという点では、「制度」や「社会」といったものも悪くはありません。今後ともどうぞご贔屓に。


*1:この数年に何度か間接的なやり方で言われのない一方的な中傷を受けました。その中には一緒に仕事をした方や社会的影響力が小さくない方もいて、同じく文化を研究する仲間としては本当に無念な思いをさせられたことを告白しておきます

*2:歴史哲学の視点から〈聴く〉ことの意味を真摯に考えた論文集としては、大橋良介『聴くこととしての歴史』(名古屋大学出版会、2005年)を挙げておきます。

www.unp.or.jp