【お知らせ】論文「山本良吉「と」武蔵高等学校」の公開

 10月中旬に以下の論文を公開しました。

100nenshi.musashi.jp

 本論は、日本の教育者である山本良吉(1871〜1942)と(旧制)武蔵高等学校の関わりを、歴史的世界に広く位置づけたものです。

 山本は、紆余曲折を経ながら明治国家の教育畑のキャリアを昇りつつ、多くの論考によって倫理学や教育学の世界でそれなりに名を挙げたのち、創設期の武蔵の教頭として、また戦前・戦中はその校長として、自らの教育理念を実践しました。その性格は毀誉褒貶にさらされながらも、founding fatherとして今も学園史に存在感を残しています。また、同郷(加賀)の西田幾多郎鈴木大拙との生涯変わらぬ友情についても知られています。

 とはいえ、武蔵学園史という閉じられた世界でのみ、あるいは日本思想史の端役としてだけしか、山本の名は知られていないというのが実情です。本論が述べるとおり、山本の教育論や記事はそこまでオリジナリティがあるとは言えず、思想史に彼の名前が残らなかったのも故なきことではありません。

 しかし、理論の人ではなく実践の人として山本を再考した結果、戦前から変わらぬ「リベラルな校風」として語られてきた「武蔵の自由」なるもののイメージを別の角度から見直すことができました。結論から言えば、明治国家体制における理想的な国民、つまり近代国家を発展させる自律的な主体subjectであると同時に、天皇主権に自発的に服従する臣民subjectであるような人間を育てることこそ、武蔵の出発点であったということです。

 確かに、戦前・戦中の武蔵が国家主義的であったことはよく知られていますが、それが戦後になって「一新された」というイメージもなんとなく広がっているようです。本論は、「反動的な旧制」から「リベラルな新制」へという直線的な理解を括弧に入れ、可能な限り同時代のテキストの読解から始めました。その上で、⑴山本良吉の思想的基盤を整理し、⑵ 彼の武蔵での実践を明らかにし、⑶ 彼の名が戦後にいかに神話化され、批判されたかという問題に答えたつもりです。 

 本論の主人公は言うまでもなく山本良吉ですが、実はもう一人の主人公が後半に出てきます。それは1967年から20年間、教頭・校長を務めた大坪秀二です。大坪は退職後に学園史の史料編纂に携わり、それは「山本神話」を掘り崩すことになりました。本論は、大坪の仕事を「先行研究」として利用しつつも、彼の歴史叙述それ自体を一つの経験の「語り」と捉えることで、山本それ自体と山本をめぐる神話の両方を歴史化することに努めました。気負った言い方をすれば、学園史(叙述)の「メタヒストリー」というわけです。

 この読者には大坪の同僚であったり、彼の教えを受けた人(「ツボさん」と呼ばれていたとか?)も多いことでしょう(私自身も晩年の彼にお会いする機会がありました)。私の大坪の見解への批判には、きっと多くの異論・反論が寄せられると予想しております。けれども、これは今や武蔵の外の人間として、また歴史を研究する者として、そして山本・大坪を相対化できる新しい世代の一人として、内輪の郷愁を喚起する学園史ではなく、外部での議論に開かれた学園史を書こうと考えた結果であります。

 ですので、武蔵関係者は無論のこと、それ以外の方々にこそ読んでいただければ幸いです。誤字脱字や読みにくい箇所があるかと思いますが、皆様からのフィードバックを反映させた上で年度末までに改めて紙媒体で出版する予定です。ご意見・ご感想をお待ちしております。