【エッセイ】「コロナ闘病記」(後半)

 

(承前)

 最後に蛇足ながら(実は一番書きたかったことでもあるが)、コロナ体験について感じた若干の事柄を、これからの自分のために、また来たるべき感染者たちのために残しておく。

 第一に、今回の私自身の判断ミスへの総括。日本国内でコロナウイルスへの対策機関は限界を迎えつつも、それでもやはり前線の努力のおかげで辛うじて機能している。この緊急事態では少しでも風邪の症状を感じたら医療機関や行政を頼ることを面倒くさがらないことが大事である。これは当たり前のことのように思われるが、日々の忙しさで近視眼的になりがちな私たちの多くは、病院に行くよりも自宅で休む方が「効率的である(巷では「コスパが良い」という)」と判断するのではなかろうか(そもそも衰弱状態にあるときは判断能力それ自体が著しく低下しているのである)。

 この点、コロナ体験を経てより一層、独身生活者のリスクを感じる次第である。無論、パートナーや家族、その他様々な共同体で一緒に生活することは、それはそれで感染拡大のリスクを伴うから、独身生活と共同生活とどちらが絶対的に優れているということはない。重要なのは、行政や医療機関が限界を迎える目下、それぞれの生活形態に合わせて「自力救済」の手段を確保しておき、いざとなれば面倒臭がらずにそれを行使する覚悟をもつことだろう。あまり他の地域の院生・ポスドクの生活には詳しくないが、少なくとも京都という地は、終電まで語り明かしても朝には歩いて帰ることができる程度の狭いコミュニティを学生たちがもちあわせていることは確かだ。かれこれ100年になるこの伝統的な相互扶助に適した「場」に生かされていることを感じたので会った。

 第二に、嗅覚を喪失する体験について。コロナウイルスの恐怖の一つは、それが感染者から味覚や嗅覚を2週間から1年以上に渡って奪い続けることである。これは何よりも実存的な危機を人間にもたらす。物を喰べたい。この根源的な欲求に比べれば、承認欲求やアイデンティティなどは副次的なのではないか(そうした次元の悩みが死をもたらしている現実を否定するものでは決してない)。L・フォイエルバッハ曰く「人間とは彼の食らうものなり(Der Mensch ist, was er isst)」。この偉大な唯物論者の駄洒落混じりの名言を身に染みて感じることとなったのだ。

 嗅覚を失った時の衝撃は小さくなかった。熱と喉の痛みが下がったことだし、体力を早くでも回復させようと、近くの店で海老のガーリックフライや鰻の蒲焼きを買った。だが口に広がるのは、ソースの甘さや辛さといった原初的な味覚だけ。母なる海が与えてくれる無数の風味や香ばしさが私の舌と鼻を喜ばすことはできなくなっていた。スポーツドリンクを飲んでも甘さと酸味(と些かの旨み)を感じるだけで、グレープフルーツなどの果物の風味は一切感じられない。ルンペンインテリ予備軍としてのささやかな隠遁生活にとって、食の喜びは大きな比重を占める。何よりも毎日の労働力を再生産するには、肉と野菜・果物と穀物をしっかり喰らわねばならない。この再生産のサイクルを回す二輪の車こそ、味覚と嗅覚であると考えている。

 家族と知人から多くの食材や生活用品を送ってもらったが、その好意を活かすためにも食べねばならない。だが、食欲を支える軸の一つを失った私にとって、食べる日常を回復させるのは簡単なことではなかった。そもそも私の体質は極めて痩せ気味であり、20代前半までは(身長175cmで)体重は50kg前後を行き来するような有様であった。だが定期的な無酸素運動をして、肉と穀物プロテインを多めに摂取することで辛うじて、私の体重値を示す貧相な三角関数のグラフは、正の方向へと向かいつつあった。だが、コロナ生活で体重と体力は大きく損なわれてしまっただろう。

 そもそも嗅覚なしで味覚のみで食生活を送るとはどういうことか。こんな状態はかなりレアなケースではないか。この事態を悲観的に見るならば、失って初めて気づく嗅覚のありがたさに思考を集中させることになる。そんな悲しみに身を浸すのはたまには良いものだが、人間精神はそんなあまりに実存的な悲しみを2週間以上も持ち堪えることはできないと思う。とすれば、この事態を一つの機会と捉え、味覚そのものに寄り添って食生活を送る想像力を養ってみることにしようと決心した。

 味覚とは今の研究水準では、塩味・酸味・甘味・苦味・旨味の5つの基本要素で構成されている。いわば人間の食生活にとって最も原初的な感覚と言えよう。永遠不変と信じられてきた人間の感覚そのものも歴史性を免れない。アナール学派コルバンたちがリードしてきた「感性史」研究の数々がこれを実証してきた。味覚・嗅覚の歴史を紐解く前に幸いにも嗅覚を回復したので、この辺りの研究書をまだ読めていないのだが、人間の食生活にとって原初的な味覚が大部分を占めていた時空間は存在したのではないだろうか。無論、古代や中世にも香料や味付けの技術はあっただろうが、それでもやはり、高度に構成・体系化された風味をもって食生活を楽しむようになるには、近・現代を待たねばならない。肉を輸送する際の防腐剤として香辛料が求められたり、増え続ける余暇を満たす趣味としての食概念(グルメ)が発達したり、労働の集中化で増大した必要なエネルギーを効率的に摂取する技術として味付け技術が発達したりといった様々な要因を想定することができる(無論、素人の思いつきである)。

 食文化や食の感性は、近現代になるについて高度・複雑化していくというような単線的な発達史観を述べるつもりはない。地域によって価値基準そのものが異なるし、それらは単純に比較できるものでもなかろう。とはいえ、人類史の展開を資本主義の拡大として捉えるのであれば、これを欲望体系の高度・複雑化として考えることはできるだろう。人間の三大欲求と言われる食欲・性欲・睡眠欲が、地域差はあれども次第に拡大・多元化していき、それを刺激する装置もまた複雑化することで新たな価値を産んでいったとすれば? 

 そんなことを考えているうちに私の嗅覚はもとに戻り、いつもの食生活がやっと帰ってきたのであった。

 

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