【エッセイ】「コロナ闘病記」(前半)

 朝、三ツ矢サイダーを飲む。液体が口に入る瞬間、舌の上では甘味や酸味と一緒に様々な果実から取ったであろう香味が一つの重奏を奏でている。ああ、やっと私にも嗅覚の日常が戻ってきたのか…。

 

 令和3年目の盆休みは絶え間のない激しい雨に覆われた。それは不治の病に汚された全地球の人々の魂を洗う禊なのか、無残にも魂と肉体を運び去っていく死神を迎える声なのか。

 博士課程も3年目を迎えつつあるのに、国内外で碌な調査が叶わないでいる。社会全体が貧困で苦しむなか、学振特別研究員として国民の税金でのうのうと生きるこの身を日々呪いつつ、それでもここ・いまで可能な資源を頼りに私は自分の研究テーマに取り組み、少しでも成果を形にしようと焦っていた。7月下旬から8月上旬までは、私の関わるシンポジウムや学会の世話役、そして先輩の好意で招いてくださった博士論文に関する口頭報告などに首ったけであった。

 なんとか仕事を終えたが盆休みは返上のつもりであった。コロナの感染リスクを下げるために、本格的な外出は控えているものの、科研費の予算執行や資料の回収などで10日には、所属先の日文研へ出所する。その後、調子が悪化する。12日には勉強会でお世話になっている仲間と会おうとしたが、身体のだるさを感じて、結局のところ集会は中止(今からすれば賢明な判断であった!)。13日もだるさが続き、ほとんど予習ができないまま少人数でやっている哲学書のオンライン読書会に参加したが、ここで私の体力は限界を迎えていた。

 8月14日の気だるさは異常であった。盆休みは海外大学からのRAの仕事や、引き受けた原稿の執筆に充てる予定であったため、3日間も休んでいてはいけない、ひとまず身体でも解そうかと、夜22時にマッサージ屋に電話をかけたが予約は満杯とのこと。気だるさに加えて節々の痛みを感じる。どうもおかしいと思い、整理のつかない部屋から体温計を久々に「発掘」するやいなや、測定すると結果は38度越え。間違いなく風邪である。その日は床に伏せた。

 高熱の症状は16日朝まで続き、その後は37度前半を行ったり来たりしていた。盆休みで外来はほとんど空いていない(緊急外来は空いていたし、即受診すべきであったが)、ただの風邪であれば市販薬を飲めば治るだろうと判断し、ひたすら布団に包まっていた。だが何か寝苦しい感覚があった。睡眠状態に入ったりそこから出たりする際、肺に痛みや苦しさを感じる。17日には肺と喉の痛み、咳の激しさが最高潮を迎えていたのだった。

 SNSを通じて連絡を取っていた友人から、私が新型コロナウイルスに感染したのではないかという仮説を提示された。俄には信じられなかったが、その仮説は18~19日から一気に確実性を帯びる。熱が下がり、喉の痛みが治まったかわりに、嗅覚がほとんどなくなったのだ。味覚は感じるのに風味を感じることができない(不思議なことに鼻水はひどくならない!)。肺の痛みを感じた時点で気づくべきであったが、これこそ私にとっての「コロナ体験」の決定的瞬間であった。

 8月下旬時点で、日本の総人口の1パーセントがコロナに感染しているらしい。この割合が高いか低いかはさておき、大変な事態になってしまった。20日早朝、京都府の緊急医療相談センターに電話をかけて病院をいくつか紹介してもらう。大きな病院に行ったが、爆発的に増加するコロナ感染者への対応でてんやわんやであった。高い初診料と長い待ち時間に辟易した私は、別の小さな病院を紹介してもらい、そこですぐにP CR検査を受けた。私はコロナ感染候補者として、他の患者とは完全に区別された。指定された時間に病院へ行って携帯で電話をかけると、裏口から通され、そこで唾液を検査器に入れ、薬をもらって帰宅。21日夜、私の予想通り、陽性判定が出た。症状を感じてから既に1週間が経過していた。

 その後は後始末である。まず、2週間以内に私と接触した可能性がある人や組織に連絡して回ることになった。肺の痛み、嗅覚障害、体力低下(長い間寝ていたことによる腰の痛みを含む)などの後遺症を克服するには、その後ほぼ丸々1週間を要したが、27日には保健所から健康保護観察の終了の告知をいただいた。8月末にはオンラインでの学会参加や講師のアルバイトをできるまでには回復している。

 幸いながら、各方面からお見舞いの言葉や物心両面での支援をいただけた。様々な形でお世話になった方々にこの場を借りて御礼申し上げます。また、スケジュールの混乱でご迷惑をおかけしている先生方にはお詫び申し上げます。

(後半に続く)

 

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