【日記】2021年11月21日(日)

 今週末はひとと会う用事もなかったので、溜まっている事務仕事をひたすら続けている。徹夜をして昼間まで作業に集中し、長い昼寝を取ってから夕食、また作業に戻る。この想起帳を記すのも3日目である。「三日坊主」と昔からいう通り、何かを習慣づけるときに3日目というのはひとつの壁だが、平日でもちゃんと続けていこう…

 

 何かを過剰に価値づけようと力めば力むほど残念な結果になる。何かを持ち上げ過ぎれば「誉め殺し」という嘲笑に、何かを攻撃し過ぎれば「悪魔化」という賞賛をもたらすだけだろう。現代の「論壇?」なるものの場を作るSNSでは、その風潮に速度の集中と感情のラッシュが交わっていくが…もはや何も言うまい。

 見るに堪えないし聞くに堪えないのは、学問好きと思しき人々が「この〇〇を読まねば、××学では即死確定!」と大げさな物言いで入門書の類を勧め、その絶叫に多くの「共感」や「拡散」のボタンが消費される光景である。そんな強迫症的な物言いで読書を迫って(あるいは互いに迫りあって)楽しいだろかと思うし、推薦されてる本を見ても別に絶対的な「古典」というわけではないし、案の定、推薦者の「読み」が格段優れているわけでもない。

 特にうんざりするのは、そういった言説の産出や再生産に「アカデミズム」に関係する一部の人々が積極的に参加している点だ。「〇〇は、××学を学ぶ人は全員必読にすべき」「政治家には全員、〇〇を読ませるべき」と声高に叫ぶ事例に至っては、中途半端な権威を傲慢なかたちで振りかざす言語実践であり、呆れてしまう。そういう人に限って、じゃあマルクスやM・ヴェーバーは読みましたかと尋ねてみると、「冷戦崩壊後にそんなものは古い」だとか「そういう教養マウンティングは良くないよね」だとかいう情けない言い訳で開き直り*1、自らの不勉強を恥じようともしない。20世紀以降で人文・社会系の学問をやるときに、例えば『資本論』や『純理』よりも優先して読まねばならない本って、最近出された小綺麗な本のうちに何冊あるというのだろうか。

 そんなしみったれた態度で多数に阿ることで、その実「××学」の「定説」なり「お作法」なりを再強化し続けるような「教科書」ネクロマニアになるよりかは、私は「古典」を前に(可能ならば原書を参照しながら)唸ることで自分自身の瑞々しい「教科書」を新しく描いてやりたいとさえ思うのだ。その代償として「老害」や「アナクロ」のレッテルが貼られるだろうとしても*2。とはいえ幸いなるかな、私の周りにはそうした想いを共有できる人々がちらほら見られるし、そうした方々からは常に刺激を受けている。

 SNSで得られる出版情報には貴重なものも少なくはないが、それにしても「話題の新刊」や「必読書」の氾濫からは距離を取っていきたい。もうここ2年くらい、新しく出た新書の類は、読む必要が迫られない限り、ほとんど目を通していない。この種の天邪鬼的な態度は、自らの不勉強の弁明につながることには常に反省的でありたいものの、私は私自身にとって「生きた知識」を紡ぐためのアイデアをもたらす原石を、埃のなかから発掘することだけで精一杯なのだ。

 林達夫がどこかで言っていたが、自分でものを考えるにはあまり人の書いたものを読んでいる時間はないはずなのだ。私の場合、それに気づくまでに時間がかかりすぎてしまったが、今はとにかく書く身体を日々、鍛えていくことを続けたい。

*1:執拗な言い方になってしまうが、ウェーバーではなくドイツ語の読みに近い「ヴェーバー」という言い方をして「ある種の権威主義じゃない?」と冗談めかして言われたことがあるが、私自身は日本語世界のもつ正当な慣用である言語尊重主義に従っているだけである。なおその人が英語圏が長かったせいだろうか、妄りに英語表現を日本語に混ぜて憚らなかったのはどこかおもしろかった。

*2:ですので私が博士課程にもなってまだカントをまともに読んでいないことは死ぬほど恥ずかしいと思っています。一緒に読んでくれる人は声をかけてください。

【日記】2022年11月20日(土)

 昼夜逆転生活が続く。しかも毎週金曜日の夜間は、カルチャースクールでのアルバイトがあり(割と楽しくやっている)、夕食が夜食と化すのがほぼ避けられない。昨日は久々にある繁盛店に閉店間際に駆け込み、家系ラーメンと白ご飯をいただく。30歳を超えて胃もたれすることが増えたので、「脂多め」には挑戦できなくなってきたが(その悪魔的誘惑に乗ったが最後、運が悪ければ夜に嘔吐感と頭痛に襲われてしまう)、「スープ濃いめ」でなんとか凌いでいる。茶碗に豆板醤とおろしにんにくを大量に乗せておき、「ご飯+スープ」にこれらをかけて食べる。混ぜてしまわないことが重要であり、特に半固形のにんにくのもたらす臨場感は、「のり+麺+スープ」の調和を祝福することであろう。

 そんなこんなで、帰宅後はたまった依頼仕事や書き物を終わらせるつもりだったが、ほとんど動けずに受動的な趣味で夜をふかしてしまった。翌日は昼過ぎに起き、天気も良かったのだが、ほとんど動けず仕舞いで、夕方までぼーっとしていた。いや、正確に言えば、複数の選択肢を選び取りかねている間に時間が過ぎてしまったのである。映画館に行くか、博物館に行くか、はたまた外食にでも行くか、自炊の材料を買いに行くか、そもそも本日を休みにするか、仕事日とするか…。これでは頭も身体も休まらない。

 結局のところ日曜日の変わり目まで「精神のスタック」は続いたので、気分を変えるために常備薬を飲んで作業に向かっている。そろそろ次の投稿論文を書いてしまわねばならないし(年度末にはもう1本控えている)、大事な依頼仕事も数本抱えているし、職場や研究会に向けてエッセイや書評もやらなくてはならない。

 アウトプットに向けた身体と精神のストレッチは、毎日何かしらの文章を紡いでいないと、甚だ時間と気力を要するものだ。そもそも私が常にどこか陰鬱なものを抱えているのは、近い世代の成功者への羨望や嫉妬に気を取られているばかりではなく、電子タブレットを触れば自然と入ってくるインプットの洪水に呑み込まれているからである。過去・現在・未来のもろもろが意識のなかを駆け巡っては、気分を上げ下げするので、こちらとしてはたまったものではない。とにかく、(どこを1日の句切れとするのかがわからないが)恣意的に決めた1日の最初か最後に、頭に浮かんだことを書き記しておく。その日にやったことでなくてよい。長くなくてもよい。脈絡や因果関係、起承転結が綺麗でない方がむしろよい。とにかく毎日、何かちゃんと書き記して、不特定多数に晒しきってしまう習慣(そもそも習慣化という流れがとても苦手なために人生苦労している…)を作っていきたい。結局は表現力とは速度と量によって決まるのであり、そしてその基盤は、恥も外聞も捨て去って、ある種の諦めを素早く受け入れることにあるのだから。

 そういうわけで勢いあまって、この「想起帳」なるブログを作って、早速いくつかの記事を一気に投稿・編集しているわけである。

【日記】2021年11月19日(金)

 今日は昼に目を覚ます。ある長年の研究仲間から投稿論文の修正依頼を手伝ってほしいと言われているのであった。彼のメールは残り時間が5時間もないことを告げていた。チョリソーと冷凍ご飯とパスタソースで簡単な食事を用意しつつ、メールに添付された草稿データをプリンタに出力して紙に印刷し、腹に栄養をぶち込みつつ、同志の論文に応急処置のメスを入れていく。

 勝負に挑む者は結局のところ結果がすべてである。言葉を商売道具とする者は、試行錯誤の道筋がどんなものであれ、外側に刻印された痕跡(ex-pression・Aus-druck・вы-ражение・表-現)だけがすべてである。いつまでも形にならない草稿を定稿へともっていくには、鋼鉄を何度も鍛え直すような作業を必要とする。共に長い時を過ごしてきた同志の言葉の意味を受け止めつつも、あくまで表面に現れたものだけに専念するには冷酷な意志が必要である。弱い部分や歪んだ部分は容赦無く冷酷に叩いては壊し、強く鋭い刃物に仕上げていく。わたしは、自分の仕事を多少は後に回して優先するほどには、この仕事が好きである。
 他人の日本語に向き合うのはおもしろい。文全体の構成、段落の分け方、文章同士のつなげ方、一文の長短の度合い、単語や熟語の使い方など、各階層ごとに目を凝らしてチェックしていくと、それがそのまま自分の言語実践のあり方を反省させ、やがては日本語という言語共同体を意識させるからである。観察する文章に癖があればあるほどそれを強く感じる。独特の文体と酷い悪文は紙一重なのかもしれない。言語規範(文法・語法)の忠実でありすぎるか、徹底的に叛逆しているかの違い、またそれらの配分や位置関係の違いに過ぎないのであるから。
 件の同志の日本語は、善かれ悪しかれ読者の脳裏に印象を残し続けるであろう程度には、強烈な特徴をもっている。まずもって一文が長い。しかも長いといっても、主語と述語を明瞭にんで主文を一徹させつつ、複文や修飾句を階層的に散りばめ、それらを滑らかに接続していく、例えば蓮實重彦のような長文ではない。複文も修飾句も一切合切をひとつの主語に背負わせ、さらに頑なに受動態にばかり依存することで、頭がとびきり重くなった長文である。ここで再現するのは難しいが、前者の長文は動詞主体に、後者は名詞主体になる傾向をもたざるを得ない(例:「当局が100人の活動家を不当に逮捕したことで」/「当局の100人の活動家の不当な逮捕によって」)。
 私が曲がりなりにも習得した(しつつある)言語で考えると、英語やフランス語は動詞主体・能動態重視の、ドイツ語は名詞主体・やや受動態重視の傾向をもっているように思う(ロシア語はまだそこまで分からないが)。確かに日本語は受け身中心になりがちで、そこから主語はなくても通じるだとか論理的でないとか、挙げ句の果てには日本人には主体性・責任意識がないだとかいう話が出てくるのだが、そういう似非文化論はさておき、日本語の「自然な」フォームって何だろうかと改めて考えてしまう。
 少なくとも近代以降の日本語は、西欧諸語との格闘によってその語彙や文法を鍛えてきたこと--ロシア語で書いてから日本語に訳して『浮雲』を書いた二葉亭四迷、同じことを英語から行った村上春樹、フランス語の文構造を血肉化して「悪文」と呼ばれる文章を書いた大江健三郎、ドイツ語の直訳調の文章を社会科学あるいは「党」の標準文体としたマルクス主義者たち--を踏まえれば、随分と度量の広い、裏を返せば運用上の隙が多い言語である(例えば、驚くべきことに読点の打ち方に統一的なルールはないに等しい!)。だから私は、日本語で食っていくものは、少なくとも読解・作文の点だけでも外国語に精通していなくてはならないという古風な格率を信じているのだ。
 唯物的な次元に目を移してみれば謎は広がるばかりだ。深夜にこうやってタイピングしていることそれ自体が奇妙ではないか? 頭に浮かんだ文字をアルファベットに直して一字ずつタイプし、ローマ字から瞬間的に変貌した平仮名を今度は、適当な箇所で区切って漢字とかな(やカタカナ)の組み合わせへと変化させる。手順としては「かな入力」の方が「ローマ字入力」よりも効率的であるはずなのに、実務の上では後者のヘゲモニーは揺らがない。他方、これが携帯端末になると「フリック入力」という形で前者の入力方式が逆襲をはじめている。話が逸れた。以下の訳書に見られるような、唯物的転回?を遂げつつある(安易なコミュニケーション論で閉じてしまわない!)メディア論についてはしっかり勉強したいと考えている。

inscript.co.jp

www.chuko.co.jp
 結局のところ、鍛冶屋たる私は、件の同志の文体をできるだけ残すよう心がけ、どうしても意味が通らないところについてのみ、修正案を提示した。悪文のようなものは、ひとつの文体の可能態であると考えるからだ。昨今、流行っている「アカデミック・ライティング」が北米合州国という土壌であればこそ必要とされた表現の一つの「型」であり、時と場合によってはそのまま使うことはできず、またやがては離れて打ち捨てられる(守・破・離)対象でさえあること。それを忘れないでおくことは、英語ではなく日本語を使って表現する/せざるを得ないという言語共同体への感覚そのものを左右するし、そのためには、自分なりの表現論とその変体をいくつか用意しておくことが肝要であるからだ。
 なんとかして話にオチをついたのか? そもそもこの場にオチは必要か? これは「想起帳」なのだから、始幕・中幕・終幕が揃っていなくてもいいわけだが、まだラフに書くということに慣れておらず、悪い意味で真面目に書いてしまう癖が抜けていないようだ。この場は、形式において「日記」、内容において「想起」たることを目指している。文体や単語には偏執的なこだわりがあるし、全世界に垂れ流す以上、その欲望を統制するのは難儀であろう。それでも、毎日なんらかの事柄を書き続けたい。文体の実験もなるべくさまざまなやり方で為していかねばならない。

【お知らせ】論文「山本良吉「と」武蔵高等学校」の公開

 10月中旬に以下の論文を公開しました。

100nenshi.musashi.jp

 本論は、日本の教育者である山本良吉(1871〜1942)と(旧制)武蔵高等学校の関わりを、歴史的世界に広く位置づけたものです。

 山本は、紆余曲折を経ながら明治国家の教育畑のキャリアを昇りつつ、多くの論考によって倫理学や教育学の世界でそれなりに名を挙げたのち、創設期の武蔵の教頭として、また戦前・戦中はその校長として、自らの教育理念を実践しました。その性格は毀誉褒貶にさらされながらも、founding fatherとして今も学園史に存在感を残しています。また、同郷(加賀)の西田幾多郎鈴木大拙との生涯変わらぬ友情についても知られています。

 とはいえ、武蔵学園史という閉じられた世界でのみ、あるいは日本思想史の端役としてだけしか、山本の名は知られていないというのが実情です。本論が述べるとおり、山本の教育論や記事はそこまでオリジナリティがあるとは言えず、思想史に彼の名前が残らなかったのも故なきことではありません。

 しかし、理論の人ではなく実践の人として山本を再考した結果、戦前から変わらぬ「リベラルな校風」として語られてきた「武蔵の自由」なるもののイメージを別の角度から見直すことができました。結論から言えば、明治国家体制における理想的な国民、つまり近代国家を発展させる自律的な主体subjectであると同時に、天皇主権に自発的に服従する臣民subjectであるような人間を育てることこそ、武蔵の出発点であったということです。

 確かに、戦前・戦中の武蔵が国家主義的であったことはよく知られていますが、それが戦後になって「一新された」というイメージもなんとなく広がっているようです。本論は、「反動的な旧制」から「リベラルな新制」へという直線的な理解を括弧に入れ、可能な限り同時代のテキストの読解から始めました。その上で、⑴山本良吉の思想的基盤を整理し、⑵ 彼の武蔵での実践を明らかにし、⑶ 彼の名が戦後にいかに神話化され、批判されたかという問題に答えたつもりです。 

 本論の主人公は言うまでもなく山本良吉ですが、実はもう一人の主人公が後半に出てきます。それは1967年から20年間、教頭・校長を務めた大坪秀二です。大坪は退職後に学園史の史料編纂に携わり、それは「山本神話」を掘り崩すことになりました。本論は、大坪の仕事を「先行研究」として利用しつつも、彼の歴史叙述それ自体を一つの経験の「語り」と捉えることで、山本それ自体と山本をめぐる神話の両方を歴史化することに努めました。気負った言い方をすれば、学園史(叙述)の「メタヒストリー」というわけです。

 この読者には大坪の同僚であったり、彼の教えを受けた人(「ツボさん」と呼ばれていたとか?)も多いことでしょう(私自身も晩年の彼にお会いする機会がありました)。私の大坪の見解への批判には、きっと多くの異論・反論が寄せられると予想しております。けれども、これは今や武蔵の外の人間として、また歴史を研究する者として、そして山本・大坪を相対化できる新しい世代の一人として、内輪の郷愁を喚起する学園史ではなく、外部での議論に開かれた学園史を書こうと考えた結果であります。

 ですので、武蔵関係者は無論のこと、それ以外の方々にこそ読んでいただければ幸いです。誤字脱字や読みにくい箇所があるかと思いますが、皆様からのフィードバックを反映させた上で年度末までに改めて紙媒体で出版する予定です。ご意見・ご感想をお待ちしております。

【エッセイ】「コロナ闘病記」(後半)

 

(承前)

 最後に蛇足ながら(実は一番書きたかったことでもあるが)、コロナ体験について感じた若干の事柄を、これからの自分のために、また来たるべき感染者たちのために残しておく。

 第一に、今回の私自身の判断ミスへの総括。日本国内でコロナウイルスへの対策機関は限界を迎えつつも、それでもやはり前線の努力のおかげで辛うじて機能している。この緊急事態では少しでも風邪の症状を感じたら医療機関や行政を頼ることを面倒くさがらないことが大事である。これは当たり前のことのように思われるが、日々の忙しさで近視眼的になりがちな私たちの多くは、病院に行くよりも自宅で休む方が「効率的である(巷では「コスパが良い」という)」と判断するのではなかろうか(そもそも衰弱状態にあるときは判断能力それ自体が著しく低下しているのである)。

 この点、コロナ体験を経てより一層、独身生活者のリスクを感じる次第である。無論、パートナーや家族、その他様々な共同体で一緒に生活することは、それはそれで感染拡大のリスクを伴うから、独身生活と共同生活とどちらが絶対的に優れているということはない。重要なのは、行政や医療機関が限界を迎える目下、それぞれの生活形態に合わせて「自力救済」の手段を確保しておき、いざとなれば面倒臭がらずにそれを行使する覚悟をもつことだろう。あまり他の地域の院生・ポスドクの生活には詳しくないが、少なくとも京都という地は、終電まで語り明かしても朝には歩いて帰ることができる程度の狭いコミュニティを学生たちがもちあわせていることは確かだ。かれこれ100年になるこの伝統的な相互扶助に適した「場」に生かされていることを感じたので会った。

 第二に、嗅覚を喪失する体験について。コロナウイルスの恐怖の一つは、それが感染者から味覚や嗅覚を2週間から1年以上に渡って奪い続けることである。これは何よりも実存的な危機を人間にもたらす。物を喰べたい。この根源的な欲求に比べれば、承認欲求やアイデンティティなどは副次的なのではないか(そうした次元の悩みが死をもたらしている現実を否定するものでは決してない)。L・フォイエルバッハ曰く「人間とは彼の食らうものなり(Der Mensch ist, was er isst)」。この偉大な唯物論者の駄洒落混じりの名言を身に染みて感じることとなったのだ。

 嗅覚を失った時の衝撃は小さくなかった。熱と喉の痛みが下がったことだし、体力を早くでも回復させようと、近くの店で海老のガーリックフライや鰻の蒲焼きを買った。だが口に広がるのは、ソースの甘さや辛さといった原初的な味覚だけ。母なる海が与えてくれる無数の風味や香ばしさが私の舌と鼻を喜ばすことはできなくなっていた。スポーツドリンクを飲んでも甘さと酸味(と些かの旨み)を感じるだけで、グレープフルーツなどの果物の風味は一切感じられない。ルンペンインテリ予備軍としてのささやかな隠遁生活にとって、食の喜びは大きな比重を占める。何よりも毎日の労働力を再生産するには、肉と野菜・果物と穀物をしっかり喰らわねばならない。この再生産のサイクルを回す二輪の車こそ、味覚と嗅覚であると考えている。

 家族と知人から多くの食材や生活用品を送ってもらったが、その好意を活かすためにも食べねばならない。だが、食欲を支える軸の一つを失った私にとって、食べる日常を回復させるのは簡単なことではなかった。そもそも私の体質は極めて痩せ気味であり、20代前半までは(身長175cmで)体重は50kg前後を行き来するような有様であった。だが定期的な無酸素運動をして、肉と穀物プロテインを多めに摂取することで辛うじて、私の体重値を示す貧相な三角関数のグラフは、正の方向へと向かいつつあった。だが、コロナ生活で体重と体力は大きく損なわれてしまっただろう。

 そもそも嗅覚なしで味覚のみで食生活を送るとはどういうことか。こんな状態はかなりレアなケースではないか。この事態を悲観的に見るならば、失って初めて気づく嗅覚のありがたさに思考を集中させることになる。そんな悲しみに身を浸すのはたまには良いものだが、人間精神はそんなあまりに実存的な悲しみを2週間以上も持ち堪えることはできないと思う。とすれば、この事態を一つの機会と捉え、味覚そのものに寄り添って食生活を送る想像力を養ってみることにしようと決心した。

 味覚とは今の研究水準では、塩味・酸味・甘味・苦味・旨味の5つの基本要素で構成されている。いわば人間の食生活にとって最も原初的な感覚と言えよう。永遠不変と信じられてきた人間の感覚そのものも歴史性を免れない。アナール学派コルバンたちがリードしてきた「感性史」研究の数々がこれを実証してきた。味覚・嗅覚の歴史を紐解く前に幸いにも嗅覚を回復したので、この辺りの研究書をまだ読めていないのだが、人間の食生活にとって原初的な味覚が大部分を占めていた時空間は存在したのではないだろうか。無論、古代や中世にも香料や味付けの技術はあっただろうが、それでもやはり、高度に構成・体系化された風味をもって食生活を楽しむようになるには、近・現代を待たねばならない。肉を輸送する際の防腐剤として香辛料が求められたり、増え続ける余暇を満たす趣味としての食概念(グルメ)が発達したり、労働の集中化で増大した必要なエネルギーを効率的に摂取する技術として味付け技術が発達したりといった様々な要因を想定することができる(無論、素人の思いつきである)。

 食文化や食の感性は、近現代になるについて高度・複雑化していくというような単線的な発達史観を述べるつもりはない。地域によって価値基準そのものが異なるし、それらは単純に比較できるものでもなかろう。とはいえ、人類史の展開を資本主義の拡大として捉えるのであれば、これを欲望体系の高度・複雑化として考えることはできるだろう。人間の三大欲求と言われる食欲・性欲・睡眠欲が、地域差はあれども次第に拡大・多元化していき、それを刺激する装置もまた複雑化することで新たな価値を産んでいったとすれば? 

 そんなことを考えているうちに私の嗅覚はもとに戻り、いつもの食生活がやっと帰ってきたのであった。

 

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【エッセイ】「コロナ闘病記」(前半)

 朝、三ツ矢サイダーを飲む。液体が口に入る瞬間、舌の上では甘味や酸味と一緒に様々な果実から取ったであろう香味が一つの重奏を奏でている。ああ、やっと私にも嗅覚の日常が戻ってきたのか…。

 

 令和3年目の盆休みは絶え間のない激しい雨に覆われた。それは不治の病に汚された全地球の人々の魂を洗う禊なのか、無残にも魂と肉体を運び去っていく死神を迎える声なのか。

 博士課程も3年目を迎えつつあるのに、国内外で碌な調査が叶わないでいる。社会全体が貧困で苦しむなか、学振特別研究員として国民の税金でのうのうと生きるこの身を日々呪いつつ、それでもここ・いまで可能な資源を頼りに私は自分の研究テーマに取り組み、少しでも成果を形にしようと焦っていた。7月下旬から8月上旬までは、私の関わるシンポジウムや学会の世話役、そして先輩の好意で招いてくださった博士論文に関する口頭報告などに首ったけであった。

 なんとか仕事を終えたが盆休みは返上のつもりであった。コロナの感染リスクを下げるために、本格的な外出は控えているものの、科研費の予算執行や資料の回収などで10日には、所属先の日文研へ出所する。その後、調子が悪化する。12日には勉強会でお世話になっている仲間と会おうとしたが、身体のだるさを感じて、結局のところ集会は中止(今からすれば賢明な判断であった!)。13日もだるさが続き、ほとんど予習ができないまま少人数でやっている哲学書のオンライン読書会に参加したが、ここで私の体力は限界を迎えていた。

 8月14日の気だるさは異常であった。盆休みは海外大学からのRAの仕事や、引き受けた原稿の執筆に充てる予定であったため、3日間も休んでいてはいけない、ひとまず身体でも解そうかと、夜22時にマッサージ屋に電話をかけたが予約は満杯とのこと。気だるさに加えて節々の痛みを感じる。どうもおかしいと思い、整理のつかない部屋から体温計を久々に「発掘」するやいなや、測定すると結果は38度越え。間違いなく風邪である。その日は床に伏せた。

 高熱の症状は16日朝まで続き、その後は37度前半を行ったり来たりしていた。盆休みで外来はほとんど空いていない(緊急外来は空いていたし、即受診すべきであったが)、ただの風邪であれば市販薬を飲めば治るだろうと判断し、ひたすら布団に包まっていた。だが何か寝苦しい感覚があった。睡眠状態に入ったりそこから出たりする際、肺に痛みや苦しさを感じる。17日には肺と喉の痛み、咳の激しさが最高潮を迎えていたのだった。

 SNSを通じて連絡を取っていた友人から、私が新型コロナウイルスに感染したのではないかという仮説を提示された。俄には信じられなかったが、その仮説は18~19日から一気に確実性を帯びる。熱が下がり、喉の痛みが治まったかわりに、嗅覚がほとんどなくなったのだ。味覚は感じるのに風味を感じることができない(不思議なことに鼻水はひどくならない!)。肺の痛みを感じた時点で気づくべきであったが、これこそ私にとっての「コロナ体験」の決定的瞬間であった。

 8月下旬時点で、日本の総人口の1パーセントがコロナに感染しているらしい。この割合が高いか低いかはさておき、大変な事態になってしまった。20日早朝、京都府の緊急医療相談センターに電話をかけて病院をいくつか紹介してもらう。大きな病院に行ったが、爆発的に増加するコロナ感染者への対応でてんやわんやであった。高い初診料と長い待ち時間に辟易した私は、別の小さな病院を紹介してもらい、そこですぐにP CR検査を受けた。私はコロナ感染候補者として、他の患者とは完全に区別された。指定された時間に病院へ行って携帯で電話をかけると、裏口から通され、そこで唾液を検査器に入れ、薬をもらって帰宅。21日夜、私の予想通り、陽性判定が出た。症状を感じてから既に1週間が経過していた。

 その後は後始末である。まず、2週間以内に私と接触した可能性がある人や組織に連絡して回ることになった。肺の痛み、嗅覚障害、体力低下(長い間寝ていたことによる腰の痛みを含む)などの後遺症を克服するには、その後ほぼ丸々1週間を要したが、27日には保健所から健康保護観察の終了の告知をいただいた。8月末にはオンラインでの学会参加や講師のアルバイトをできるまでには回復している。

 幸いながら、各方面からお見舞いの言葉や物心両面での支援をいただけた。様々な形でお世話になった方々にこの場を借りて御礼申し上げます。また、スケジュールの混乱でご迷惑をおかけしている先生方にはお詫び申し上げます。

(後半に続く)

 

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